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2013年12月の記事

□ 台所の音

幸田文さんの「台所帖」(平凡社)に収録されている「台所の音」というエッセイがあります。

ある日、文の父親である幸田露伴が、「京都の女性がやさしいと言われるのはなぜだと思うか」と尋ねます。見栄えや話し方など、表面的なことだけではだめだ、「台所の音に気をつけてみるんだ」と彼は言うのです。
鍋釜の扱い、皿の重ね方、身のこなしから滲みでるものこそが、「やさしさ」を作り、それは一朝一夕、一代で身につくものではなく、脈々と受け継がれてこそ生まれるものだ、と文に諭す露伴。
私はこのくだりが大好きです。

その人となりは、身のこなしに現れる。
身のこなしはその人の生きざまみたいなものにより、長い時間をかけて作られる。
その受け継がれた身のこなしのようなものが、一番顕著に現れるのが、台所なんじゃないか、と思うわけです。
よそ行きの場所では繕えることも、台所の中では素が出てくる。
調理で追い立てられていれば、素材や鍋釜、皿の扱いが雑になっていくる。
そんな中で、やさしさや心遣いが消えない人に、わたしはなりたい。

ぢっと手を見る。


この「台所の音」を久しぶりに読んだ翌日。
台所の身のこなしが見事な人に、出会いました。

それは西荻のとある居酒屋。

前から気になっていたという友人と、勇気を出してのれんをくぐってみたのが数週間前。カウンターだけの小さな店でしたが、酒も肴もうまく、何よりその空間にただよう「気」のようなものが、極上に居心地がよく。

ああ、ここにはまた来たいねえ、いい店をみつけたねええと、うれしく帰宅。

その時の主は男性だったのですが、情報によると女性がカウンターの立つ日もあり、どうやら二人交代でやっているようだ、という。
ご主人の醸し出す雰囲気もよかったけど、女将さんの日にも行ってみたいと、改めてのれんをくぐった昨日。

そこにいたのは、飾り気のない、木綿手ぬぐいのような人。
白いかっぽう着が似合ってる。でも、とりたてて華があるとか、きっぷがいいとか、色っぽいとか、インパクトのある印象があるわけではない。何よりも、居酒屋のカウンターの中にいるようなタイプの女性では、まったくないわけです。

存在感マックスだったご主人とは、かなり違う印象に最初は戸惑ったわけですが。
やがて、彼女の身のこなしひとつひとつから、私は目が離せなくなりました。

生ビールください、


頼んだとたんに、彼女の手はグラスを持っています。

私は日本酒がいいかなー、と話している間に、そのグラスにはすでにビールがなみなみと注がれている。

グラスをそっとカウンターに置きながら、反対の手は冷蔵庫に何種類もある日本酒の棚から注文の銘柄をつかみ、その間に片口がカウンターに置かれ、私が日本酒をちょこに注いでいる間に、赤かぶの漬物に橙の皮をすりおろして散らした向付けが、そっと二人の前に置かれていました。

その間、ほかの客からの注文を受け、レンジに豆腐を入れ、ガス台にはフライパンを置いて、どこからどう出てきたのかわからぬぎんなん炒りに、ぎんなんを詰めている。

これらすべての動作が、まるで小川が流れているようにゆるやかに、音を立てずに行われていて、慌ただしさの一切れもない空気感を作り出しているのであります。

私達が席についてから小一時間で、カウンターは満杯になりました。

馴染みのお客さんもいるらしく、久しぶりーとか、猫元気ー? とか、いろいろ会話をしているんだけど、動きはずっと小川のごとく。

忙しくても音を立てず、せわしない風情をまったく見せず、ものすごく効率よく両手を動かし、でも動いていることのアピールはゼロで、客はすっかり安心しきって飲み食いをしている。

ああ、これが「台所の音」なのだ、と思う。

一朝一夕で身につくものではなく、時間をかけて培われたもの。


その人の、人となりに深く結びついているもの。

すごく、いいものを見せてもらった、と思った夜でした。

彼女は客の会話の、差し障りのない場所にするりと入り、するりと抜けていく。
テーブルに足りないものを探していると、さらりと置かれ、無理強いはしない。


3杯目の片口を空けたころ、それまで友人が飲んでいたチェイサーの水のグラスが、お湯に変わりました。
「今日は寒いし、水ばかりだとお腹が冷えると思って、レモン湯にしてみた」と。

レモン湯は暖かくて、冷酒とチェイサーのあとの冷えたお腹を温め、お会計を済ませて外に出たあとも、私達はぽかぽかでした。


こんな人に、私はなりたい。


ぢっと手を見る。



以前、お気に入りだったお店に再訪した時、私達の注文を間違えた店員さんを、厨房の中で怒鳴り倒している店主の声が聞こえて、この店には二度と来たくないと思いました。
数カ月後に再訪した時、お店の空気感も、肴の味も質も激しく劣化していて、呆然としたことがあった。ああ、なんというか、店主の人となりのようなものが、店の空間と気を作っていくのだなあ、と思ったものでした。

ああ、そういえば。
以前結婚していたとき。


後片付けは私がするからいいのだ、と家族を台所から追い出した義母が
台所で立てる音が私は苦手でした。
洗い物の音、皿を重ねる音、いつまでもいつまでも続く後片付けの音。
それは「家族を休ませて、家事をしている私」をアピールするかのようにも聞こえたものです。アピールなのだから、大きな音が必要なのかもしれない、とまで思ったものだ。


「頑張ってる私」に夢中になって、自分の立てる音にむとんちゃくになってしまうのって、主婦にはありがちなことなのかもしれないけれど。

でも

調理をするのだから、炒めたり揚げたりする音は変えようがないけれど

鍋の扱いや、皿の重ね方
包丁の立てる音なんかは
その人の生き方みたいなところと、深くつながるものなんじゃないかと思います。
中華料理屋みたいに、大きな音が立つほうが景気よくて食欲が湧くこともあるけれど、団欒したい家庭とか、静かにお酒を楽しみたい空間では、「台所の音」は大きな力を持つのだなあ。


「人のくらしには、寝るにも起きるにも音がある。生きている証拠のようなものだ」(幸田文著 台所の音 より)


昨日の女将さんの音は、彼女の生きている証拠のようなものだったのかもしれないです。

私も、そんな音を立てる人になりたいな、と思います。

ほんま
ええもん見せてもらいました。

そういう場所に、人ってまた行きたいなあって思うものなのだなあ、と思います。たぶん、また行きます。笑

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